六月。
台湾の池に蓮の花が咲くころ、街には卒業を迎える学生たちの笑顔と涙があふれます。
別れと始まりが交錯するこの季節、静かに咲く蓮の姿は、まるで人生の節目を見守るよう。
いけばなにおける蓮は「清らかさ」と「再生」の象徴。
第1章 蓮の花に宿る静寂と祈り ― 台湾の初夏を告げる花
六月の台湾。
夜明け前の湖面に、薄く漂う霧のベールがかかります。
空がまだ青白く眠っているその瞬間、蓮の花は静かに蕾をほどき、朝の光を受けてゆっくりと息をします。
水面を伝う風が葉を揺らし、滴る露が鏡のような水に落ちる。
音もなく、ただ世界が静まる――。
その姿を見つめていると、心の奥のざわめきがすっと消え、代わりに、透明な祈りのようなものが胸に満ちていくのを感じます。
台湾の初夏に咲く蓮は、いけばなの花材としても特別な存在です。
泥の中からすっと伸び、濁りの一片も映さぬように咲くその潔さは、華道の根底にある「清浄」「静謐」「無為の美」をそのまま体現しています。
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」― 東洋の美意識といけばな精神
蓮の花を語るとき、必ず思い出す言葉があります。
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」
古代中国の詩人・周敦頤(しゅうとんい)の言葉です。
泥の中から咲きながらも、決してその泥に染まらず、清らかさを保つ蓮の姿は、古来より理想的な人格や精神性の象徴とされてきました。
日本のいけばなもまた、この思想に深く影響を受けています。
花は人の心を映す鏡であり、どんな環境の中でも「自分の中心」を見失わずに咲く。
それが、華道の目指す “生き方” そのものなのです。
台湾で蓮を生けるとき、私はこの言葉を思い出します。
たとえば、台北の街の喧騒の中、花器の中にそっと蓮をいけると不思議と空気が静まります。
まるで花が空間の“音”を吸い取るように、そこにある人の心まで澄ませてくれるのです。
それは、ただの装飾ではなく、日常の中で“心を整える行為”としてのいけばなの原点でもあります。
台湾の蓮池文化 ― 嘉義・白河・屏東に咲く“祈りの花”
台湾では、蓮は単なる植物ではなく、土地の暮らしや信仰と深く結びついた “文化の花” です。
特に有名なのが、嘉義県の「白河蓮花季」。
毎年6月から8月にかけて、一面に広がる蓮畑が見渡す限りピンクに染まり、風に揺れる光景はまるで極楽浄土のようです。
この祭りでは、花を観賞するだけでなく、蓮を使った料理、工芸品、茶会など、生活文化としての蓮があらゆる形で表現されます。
屏東では、農家が手作業で蓮の実を取り出し、蓮茶や蓮子湯として食卓に並べます。
そこには「花も食も命をいただく」という感覚が息づいています。
いけばなで蓮を扱うときも、私はこの “循環” を感じます。
切られた花であっても、最後の瞬間まで美しく咲こうとする。
その姿は、命の尊厳を教えてくれます。
仏教と蓮の関係 ― 台湾の廟に見る花供養の心
蓮は、仏教の象徴でもあります。
仏像の台座が蓮華座であるように、蓮は「悟り」「再生」「清らかな心」を意味します。
台湾の寺院(廟)に行くと、蓮の花や蓮の形を模した供花器、香炉の意匠などが至るところに見られます。
中でも、台中の大甲鎮瀾宮や高雄の蓮池潭では、参拝者が手に持つ花束の中に必ず一輪の蓮が入っています。
それは“供えるための花”であると同時に、“生きる自分への祈り” でもあるのです。
いけばなを通してこの文化に触れるとき、花を飾る行為は単なる装飾ではなく、「日常の中の供養」であることに気づきます。
花を生けるということは、誰かを思い、何かを祈ること。
その姿勢こそが、台湾の人々の花への深い敬意を物語っています。
いけばなで表現する「静けさ」 ― 水の余白と花の呼吸
蓮をいけるときに最も大切なのは「余白」です。
花を多く入れすぎず、茎と水の呼吸を感じながら配置する。
花器の中に小さな “池” を作るようにして、水面を広く取るのがコツです。
その余白が、見る人の心に「静けさ」を生みます。
いけばなでは、花そのものよりも “花のまわりの空間” が重要です。
たとえば、一輪の蓮が静かに立つ空間には、見る人の心の風景が映り込みます。
その人の記憶、別れの涙、願い ―― それぞれが花の静けさに吸い込まれていくように感じられるのです。
台湾の蒸し暑い空気の中でも、花器の中にだけは凛とした涼しさが宿る。
それが蓮の持つ不思議な力であり、いけばながもたらす “心の温度の変化” です。
花器に映る水面の物語 ― 透明感を生けるということ
いけばなで蓮を扱うとき、花器選びはとても大切です。
台湾の陶芸家の作品には淡い青磁や乳白色の釉薬を使ったものが多く、蓮の清らかさと調和します。
とくにおすすめなのは、やや浅めで広がりのある水盤。
水面に映る蓮の影が、まるでもう一つの花のように存在感を放ちます。
この「映り込み」を生ける感覚こそいけばなの奥深さです。
現実の花と、その反射がつくる幻想。
二つの世界が一つの花器の中で溶け合う瞬間に、私たちは “静かな祈り” を見るのです。
それは、言葉を持たないけれど確かに伝わるもの。
人と人との間にある “思い” のように、形を越えて心をつなげるのが花の役割です。
台湾で暮らしていると、喧騒の中にもこうした “静寂の美” を見つける瞬間があります。
夜市の灯りが消え、街が眠りにつくころ、ベランダの花器の中でひっそり咲く一輪の蓮。
その姿に、私はいつも「生ける」という行為の意味を教えられます。
それは飾るためではなく、生きるために花をいけるということ。
いけばなとは、そんな日常の祈りのかたちなのです。
第2章 別れの季節、卒業の涙 ― 台湾の青春に咲く蓮
台湾の六月。
校門の前に並んだガジュマルの木の下で、制服姿の学生たちが笑いながら写真を撮っています。
胸には、それぞれが手作りした花のコサージュ。
中には、淡いピンクの蓮の花びらを模したものを胸に飾る生徒もいます。
その光景を見ていると、台湾の「卒業」という行事が単なる区切りではなく、「感謝」と「再生」を祝う儀式であることに気づきます。
そして、その象徴として蓮の花がそっと寄り添っているのです。
台湾の卒業シーズン ― 涙と笑顔が交わる六月の風景
台湾の卒業式は、毎年6月中旬から7月初旬にかけて行われます。
湿った空気の中で蝉が鳴きはじめると、学び舎を離れる季節の到来です。
日本と違い、台湾の卒業式は日差しの下、屋外の校庭や講堂で行われることが多く、花と共に送られることが印象的です。
式の終わりには、先生が生徒一人ひとりに花束を手渡し、互いに涙を拭い合います。
花束の中に入れられるのは、蘭や百合、そして蓮の花。
蓮は「純粋」「希望」「再生」を意味する花として、人生の新しい旅立ちにふさわしいとされています。
この「花で別れを祝う」文化は、いけばなの精神にも通じています。
別れとは終わりではなく、次の命を生けるための “余白” なのです。
卒業式に贈る花の文化 ― 百合・蘭・蓮が象徴する意味
台湾では、卒業シーズンになると街中の花屋が色とりどりの花束でいっぱいになります。
「祝賀花」と呼ばれるその花束には、それぞれの花に込められた意味があります。
- 百合(リリー)…「新しい人生の始まり」「高潔」
- 蘭(ラン)…「知恵」「品格」「友情」
- 蓮(ハス)…「清らかな心」「再生」「魂の成長」
日本では蓮は仏教や供花の印象が強いかもしれませんが、台湾では“若者の未来を照らす花”としても親しまれています。
卒業式の壇上やフォトスポットに蓮をモチーフにした装飾が使われるのは、単に美しいからではなく、人生の次のステージを祝福する意味が込められているのです。
いけばなにおいても、蓮を使った作品は「祈り」と「希望」の両方を表現できる稀有な存在です。
一輪の蓮を中心に据え、葉や枝を空に向かって伸ばすように生けると、見る人の心が自然と上を向きます。
まるで別れの涙の中に、光が差し込むような瞬間です。
「去る人」「残る人」それぞれのいけばな ― 旅立ちを生ける心
いけばなには、花を通して人の感情を整理する力があります。
卒業を迎える学生も、送り出す教師や家族も、それぞれに抱える思いがあります。
去る人にとっては、未知の世界への期待と不安。
残る人にとっては、寂しさと誇り。
そんな複雑な感情を、花に託すのです。
たとえば、去る人のために生けるなら、蓮の蕾を中心に。
まだ開ききっていない姿が、「これから咲く未来」を象徴します。
一方で、残る人のためには、開いた蓮を使います。
咲ききった花が「見守る愛」や「感謝」を表し、相手の新しい旅立ちを祝う形になるのです。
いけばなを学んだ台湾の若者たちは、この象徴の美しさをよく理解しています。
花の構成を通して、自分の気持ちを伝える ―― それは言葉よりも深いコミュニケーションです。
学生たちの手作り花束に見る台湾の “感謝文化”
台湾の卒業式で印象的なのは、学生たちが自ら花束を作って贈るという習慣です。
特に女子学生たちは、友人や先生への感謝を込めて花屋で花材を選び、ラッピングの色やリボンまで自分たちで決めます。
ある高校では、毎年クラスごとにテーマカラーを決めて花束を作るそうです。
ピンクは友情、黄色は希望、白は別れの清らかさを表す ―― まるで小さないけばなの作品のようです。
私が訪れた新竹の学校では、ある生徒が自分の担任に「白い蓮」を贈りました。
彼女は言いました。
「先生は、どんな時も私たちを見守ってくれた。泥の中でもきれいに咲けるようにと教えてくれた。」
その言葉を聞いて、私は思わず涙がこぼれました。
花には、言葉を超えた“伝える力”があるのです。
蓮の蕾と散る花びら ― 終わりと始まりの境界線を生ける
いけばなで「卒業」をテーマに蓮を生けるとき、私は一つの構成を意識します。
蕾と開花、そして散りゆく花びらを一つの花器の中に共存させること。
それは、「過去」「現在」「未来」を同時に生けるということです。
蕾は希望を、咲いた花は今の輝きを、散りゆく花びらは別れの美しさを。
これらが共にあるとき、花の命は円を描きます。
人生もまた、終わりと始まりが連なっている。
いけばなはその連続を“瞬間の形”として捉える芸術です。
台湾の卒業式の後、教室にはまだ花の香りが残ります。
それは別れの余韻であり、新しい日々への序章です。
生けられた蓮が静かに水面に映る姿を見ると、心の奥から「ありがとう」という言葉が自然に浮かびます。
別れの涙が光に変わる瞬間 ―― それこそが、蓮の花が教えてくれる真の美しさなのです。
第3章 蓮のいけばな技法 ― 水・茎・余白で語る美学
蓮をいけるということは、単に花を扱うことではありません。
それは「水」と「空間」と「呼吸」をいけることです。
いけばなは本来、花の姿だけでなく、その花が生きる“気”をどう見せるかを大切にします。
特に蓮は、根が水中にあり、茎が空へと伸びるという独特の構造を持っています。
泥と空、静と動、死と生 ―― そのすべてをつなぐ媒介として「水」を通す花。
だからこそ、蓮を扱うとき、いけばなは最も深く “自然との対話” になります。
台湾の初夏は湿気が多く、花材の扱いにも独自の工夫が必要です。
ここでは、台湾の風土に合わせた蓮のいけばな技法を紹介しながら、その背後にある「美の哲学」を紐解いていきます。
蓮を生ける前に ― 花材の選び方と水あげのコツ
まず、蓮をいけるためには「選花(せんか)」がすべての始まりです。
花屋や花農家で蓮を選ぶときは、茎が真っ直ぐで節の間隔が均一なものを選びましょう。
花が開ききっていない蕾、もしくは半開きのものが最も美しく長持ちします。
台湾では、嘉義や屏東から新鮮な蓮が出荷されます。
早朝に採れた蓮は香りが高く、花びらが透き通るように柔らかい。
いけばなに使う場合は、できるだけ午前中に仕入れ、切り口を斜めにして深めの水に浸しておくのが基本です。
特に重要なのが “水あげ” の方法です。
茎の内部はスポンジ状になっており、空気が入りやすいので、切り口を焼いてから水に浸す「焼き止め」を施すとよいでしょう。
また、台湾の水道水はカルシウムが多いため、軟水のミネラルウォーターを使うと花の持ちが格段に違います。
このように、花の命を“繋ぐ”行為そのものが、いけばなの第一歩なのです。
花と葉のバランス ― 「見せる茎」「隠す茎」の構成美
蓮のいけばなで最も印象的なのは、茎の美しさです。
茎が長くしなやかであるほど、花が空へと伸びる力を感じさせます。
しかし、ただ長く見せればいいわけではありません。
見せる茎と隠す茎、そのバランスこそが、構成の肝となります。
「見せる茎」は、線としての力を担い、空間を切り取ります。
「隠す茎」は、水面下の静けさを象徴します。
この二つが響き合うことで、作品全体が呼吸をはじめるのです。
たとえば、開いた花をやや低めに、蕾を高く配置し、茎を交差させると、時間の流れが生まれます。
それは、「今咲く花」と「これから咲く花」が対話しているような構図。
いけばなにおいては、形よりも「気の流れ」をどう表現するかが重要であり、蓮はその“流れ”を最も雄弁に語る花です。
水を主役にする ― 台湾の湿潤な空気と調和する花器選び
蓮のいけばなでは、花器選びが作品の成否を決めると言っても過言ではありません。
蓮自体がすでに強い存在感を持つため、花器は “引き算” の美学で選びます。
台湾の陶芸家たちは、蓮を主役にするための花器を多く作っています。
新北市・鶯歌の陶房で見つけた青磁の水盤は、まるで淡い空を閉じ込めたような色合いでした。
この淡い色は、蓮の花弁の透明感と響き合い、水面に柔らかな陰影を生みます。
水を主役にする構成では、花器の中に“風景”を作ることが大切です。
花と葉を少なめにして、水面を広く見せる。
その水面に、天窓の光や風の影が映り込むように配置すれば、作品全体が時間とともに変化していきます。
これは「動くいけばな」と呼ばれる表現法で、台湾のように光が強い土地では特に映える手法です。
水の揺らぎをそのまま作品の一部とする。
それが蓮を生ける醍醐味であり、華道における “生きている静止画” なのです。
余白と呼吸 ― “静” を生ける構成のポイント
いけばなを教えていると、多くの人が最初に戸惑うのが「空間を残すこと」です。
花をたくさん入れるほど豪華になると思ってしまうのは自然なことですが、蓮のいけばなでは逆です。
「引く」ことで花が呼吸し始める。
余白は、単なる空間ではなく、見る人の心を映す“鏡”です。
水面に映る蓮の影が風で揺れる瞬間、私たちは「今」という時間の尊さを感じます。
そのわずかな動きこそが、いけばなの中に宿る“生命の証”なのです。
作品を仕上げる際には、花と花の間に“風が通る道”を意識します。
台湾の湿った空気の中でも、視覚的な風を通す構成にすることで、見る人に涼やかさと安らぎを与えます。
花と空間の間に生まれる沈黙、それが「静の美」です。
現代空間に調和する蓮いけばな ― ミニマルデザインへの応用
近年、台湾でも住宅や店舗に「いけばなを飾りたい」という声が増えています。
とくに台北や台中のデザインホテルでは、ロビーに蓮を使ったモダンな花が多く見られます。
白やグレーの内装に、一輪の蓮が凛と立つ ―― その対比が空間に深みを与えるのです。
現代のインテリアでは、「少ないほど豊か」という思想が広がっています。
いけばなの世界も同じです。
蓮を一本だけ使い、余白を大胆に残す。
そこに、金属製の花器やガラスベースを合わせると、伝統とモダンが美しく融合します。
いけばなは古い芸ではなく、“生きたデザイン”です。
台湾の若いデザイナーたちが、蓮をモチーフにした照明やオブジェを制作しているのも頷けます。
花の形だけでなく、その「間(ま)」の美しさが、現代の感性と響き合っているのです。
蓮はいけばなの中で、静けさと力強さの両方を兼ね備えた存在です。
それはまるで、卒業という別れを乗り越えて、新しい人生へと進む若者たちの姿のよう。
泥の中から清らかに咲く蓮のように、人もまた逆境の中でこそ美しく生きられるのです。
第4章 台湾の蓮文化をめぐる旅 ― 花と人と風土
蓮は、台湾という島の魂を映す花です。
それは単なる観賞用の植物ではなく、人々の暮らし、信仰、食文化、芸術のすべてと深く結びついています。
梅雨が明けるころ、島の各地で蓮が咲きはじめると、人々の心にもどこか清らかな風が吹き抜けるように感じます。
泥の中から咲くという不思議な生命の象徴は、台湾の自然と人の関係を静かに語りかけているのです。
白河蓮花節 ― 台湾最大の蓮の祭りとその風景
台湾南部、嘉義県白河(バイホー)は“蓮の故郷”と呼ばれています。
毎年6月から8月にかけて開催される「白河蓮花節」では、一面に広がる蓮畑がピンクと白に染まり、遠くから見るとまるで雲海のようです。
蓮池の中には小さな歩道が張り巡らされ、風に揺れる花の中を歩くと、まるで花の世界に迷い込んだような錯覚を覚えます。
地元の人々はこの時期、蓮の花びらを乾燥させたお茶や、蓮の実を使ったデザートを作ります。
「花を見て、食べて、祈る」――この循環が、白河の蓮文化の特徴です。
花を切り離して鑑賞するだけでなく、その命を最後までいただく。
これは、いけばなに通じる“命への敬意”でもあります。
私も初めて白河を訪れたとき、朝霧の中で咲く蓮を前にして、言葉を失いました。
静けさの中に確かな力があり、どの花も凛としてまっすぐ。
台湾の人々がこの花を愛する理由が、ようやくわかった気がしました。
寺院に咲く蓮 ― 廟花としての役割と供花文化
台湾の寺院(廟)では、蓮の花が特別な意味を持ちます。
蓮は「仏の座」を象徴する花であり、信仰の中心にあります。
高雄の蓮池潭(リエンチータン)には、巨大な龍虎塔が建ち、その池一面に蓮が咲き誇ります。
観光客の賑わいの中でも、花の周囲だけはどこか神聖な空気に包まれているのが不思議です。
廟の供花として使われる蓮は、生花だけでなく、金紙で作られた紙の蓮もあります。
これは「金蓮花」と呼ばれ、先祖や神仏への感謝を表すものです。
燃やすことで、祈りが天へと届くと信じられています。
私はある老婦人から、こんな言葉を聞きました。
「蓮は人の心の形をしている。泥が深いほど、花は高く咲く。」
その言葉に、いけばなで蓮を扱うときの心構えを重ねました。
花は苦しみを飾るのではなく、それを超えて咲くもの。
寺院に生けられる蓮の一輪には、無数の祈りが宿っているのです。
客家文化と蓮 ― 食・信仰・いけばなの融合
台湾中部から北部にかけて、客家(ハッカ)文化の地域では、蓮は生活の中で欠かせない存在です。
客家の人々は、勤勉で自然と共に生きる精神を大切にしてきました。
蓮の花は「清潔」「誠実」「再生」を象徴する花として、家の中や寺院の入口によく飾られます。
また、蓮子(レンツー/蓮の実)は薬膳にも使われ、「心を落ち着ける食材」として古くから愛されてきました。
甘い蓮子湯(れんしとう)を食べると、ほっと心が緩む。
それはまるで、いけばなで花を眺めた後に感じる穏やかさと同じです。
客家の家庭を訪ねたとき、祖母が小さな花瓶に蓮の花を一輪だけ生けていました。
「これは祖先に感謝する花、そして子どもたちの未来を願う花なの」と語ってくれました
いけばなは日本の文化だと思われがちですが、その根底にある “花を通して心を整える” という精神は、台湾の暮らしにも自然に息づいているのです。
台湾北部・中部・南部の蓮 ― 地域ごとの表情と色合い
台湾の蓮は、地域によって表情が大きく異なります。
北部の新竹や桃園では、白く小ぶりな蓮が多く、清楚で上品な印象。
中部の台中や南投では、濃いピンクの蓮が力強く咲き誇り、生命のエネルギーを感じさせます。
南部の屏東では、日差しを受けて黄金色に輝く蓮が見られ、南国らしい開放感にあふれています。
いけばなに使う場合も、この地域差は大きなインスピレーションになります。
北部の白蓮は「静の作品」に、南部の紅蓮は「動の作品」に向きます。
台湾という小さな島の中に、これほど多様な花の表情があることに驚かされます。
それはまるで、人々の暮らしや気質の違いを映しているかのようです。
私は、旅先で出会った蓮を写真に収めるだけでなく、その場の空気を“いける”ように心がけています。
花は土地の声を持っています。
それを感じ取り、形にする ―― それが、台湾でいけばなをする意味なのだと思います。
花農家の手から学ぶ ― 一輪に込められた「生ける力」
蓮を生けるとき、私がいつも思い出すのは花農家の方々の姿です。
彼らは夜明け前から泥に入り、一本ずつ丁寧に花を摘み取ります。
足元はぬかるみ、背中には太陽が昇り始める。
それでも笑顔で「今日の花はきれいだよ」と言うその表情に、花を育てる人の誇りが宿っています。
嘉義の農家の青年がこんなことを話してくれました。
「蓮は、強いけれど、わがままな花です。水が濁りすぎても、日差しが強すぎても咲かない。
でも、人の手が入らないと枯れてしまう。人と自然の“ちょうどいい関係”が必要なんです。」
いけばなもまた同じです。
人が手を加えすぎても花は生きない。
しかし、まったく触れなければ、作品は生まれません。
その “間” を探ること。
それが、いけばなを学ぶということ。
蓮を育てる人々の手から、私はそのことを何度も教えられました。
花は人の手を通して、再び命を得る。
それは、いけばなという芸術が持つ最も深い“生命の循環”です。
第5章 別れのあとに咲くもの ― いけばながくれる再生の力
別れは、失うことではありません。
それは、形を変えてつながりを見つめ直す時間です。
蓮の花が散ったあと、水面には種子が残り、やがて次の季節に新しい命を育みます。
いけばなも同じように、一度生けた花が枯れたあとに、心の中に“静かな余韻”を残します。
その余韻こそが、次の作品、そして次の人生を生きる力となるのです。
台湾で暮らす私たちにとって、別れは決して悲しみだけのものではありません。
むしろ、そこに新しい出会いと成長の気配がある。
蓮はいけばなの中で、そんな“再生”の象徴としていつも寄り添ってくれる花です。
花をいけることは、過去を整えること ― 心の整理としてのいけばな
卒業、転職、引っ越し、そして旅立ち。
人生の節目に訪れる「別れ」は、時に言葉では整理できない感情を伴います。
そんなとき、私は花をいけます。
手のひらで茎を整え、花器に水を注ぐその静かな動作が、心をゆっくりと整えてくれるのです。
台湾のいけばな教室でも、別れの季節になると、受講者たちは自然と白や淡い色の花を選びます。
中でも蓮は人気です。
「この花を見ていると、心が落ち着く」と、多くの人が言います。
それは、蓮が持つ“受け入れる力”の表れでしょう。
いけばなは、感情を「整える芸術」です。
悲しみを抑えるのではなく、静かに受け止めて形にする。
その過程で、私たちは過去の出来事を一枚の花びらのように優しく手放していきます。
台湾で暮らす日本人が感じる「別れ」のかたち
台湾で生活していると、日本とは少し違う「別れの温度」に気づかされます。
台湾の人々は、別れの瞬間に泣くよりも笑って送り出すことを大切にします。
そこには、「また会える」という信頼があるからです。
別れを終わりとせず、「つながりの一部」として受け入れる文化 ―― それが台湾らしさです。
ある年の6月、私は台北の大学で卒業式に招かれ、蓮を使ったいけばなの作品を展示しました。
テーマは「再會(ザイホイ)=また会いましょう」。
花器には、咲き終えた蓮の種を沈め、上には新しい蕾を立てました。
見る人は皆、笑顔で「いいね、また咲くね」と言ってくれました。
その言葉に、私は胸の奥が温かくなりました。
日本では “別れ” と呼ぶ時間を、台湾では “再生” と呼ぶのかもしれません。
花がくれる癒し ― 心を整える “いけばなの時間”
いけばなには、言葉を超えた癒しの力があります。
花をいけている間、私たちは「今」という時間だけに集中します。
花の向き、水の音、光の角度 ――
それらを感じながら、心の中の雑念が少しずつ溶けていく。
それは、瞑想に近い感覚です。
台湾では、花をいけることを“心を洗う”行為と表現する人もいます。
特に都市生活の中では、時間に追われることが多く、自分の呼吸を忘れてしまいがちです。
しかし、花の前に座ると、人は自然と「今ここにいる」ことを思い出します。
私が主宰する台北のいけばなクラスでは、授業の終わりに5分間の“静寂の時間”を設けています。
花を眺めながら、言葉を交わさず、ただ呼吸を感じる。
すると、誰もが穏やかな表情になり、心の中で何かが“整って”いくのがわかります。
その静けさの中にこそ、いけばなの本質があるのだと思います。
蓮の再生力に学ぶ ― 泥の中から咲くという希望
蓮は、決して清らかな水の中では咲きません。
泥があるからこそ、花は生まれます。
この事実は、私たちの人生そのものに似ています。
苦しみや迷い、失敗や別れ――
それらは決して無駄ではなく、花を咲かせるための土壌なのです。
台湾南部の花農家では、毎年、蓮の畑の泥を入れ替えます。
腐った葉や茎が混ざった泥を新しい命の栄養に変えるためです。
その泥の中に、来年咲く花の芽がすでに眠っている。
そう思うと、どんな別れも決して“終わり”ではないことに気づかされます。
いけばなでも、枯れた花を捨てるとき、私は一瞬手を止めます。
「ありがとう」と心の中で呟くのです。
花はもう枯れていても、その形を通して私に多くを教えてくれた。
それは、生ける者と生かされる者との静かな対話です。
一輪の蓮に託す言葉 ― 「ありがとう」を形にする文化
日本には「花は言葉の代わり」という考えがありますが、台湾でもそれは同じです。
特に蓮は、言葉にできない感謝を伝える花として愛されています。
台湾語では「蓮(liân)」と「連(つながる)」が同音であるため、蓮を贈ることは“縁をつなぐ”という意味も持ちます。
ある台湾人の友人は、旅立つ娘にこう言って一輪の蓮を渡しました。
「無論到哪裡,蓮花都會記得你的笑容(どこへ行っても、蓮はあなたの笑顔を覚えている)」
その言葉が胸に響き、私はしばらく動けませんでした。
花は、記憶を運ぶ存在なのです。
いけばなで蓮を生けるとき、私は必ず最後に一瞬だけ手を止め、心の中で誰かに “ありがとう” を伝えます。
それが、作品の完成です。
花を通して誰かに感謝を伝えること ――
それが、いけばなの本質であり、蓮の教えてくれる生き方です。
別れのあとに残るのは、寂しさではなく、感謝の静けさ。
その静けさの中に、新しい芽がもう芽吹いている。
いけばなとは、その“芽吹きの瞬間”を形にする芸術なのだと思います。
まとめ 蓮の花が教えてくれる、別れと再生のいけばな
静かな朝、蓮の花が一輪だけ、池の水面に開いています。
その姿を見ていると、言葉よりも先に心が動く瞬間があります。
美しいという感情ではなく、もっと深く、穏やかな感覚――
「生きている」ことをただ肯定するような、そんな静けさです。
台湾でいけばなを教えながら、私は何度も蓮に救われてきました。
別れの季節、失う痛みの中にあっても、花は決して嘆かず、ただまっすぐに咲き、やがて散っていく。
その潔さの中に、いけばなの原点があります。
花は、咲くために生きているのではなく、“流れの一部として生きている” のだと気づかされるのです。
台湾の蓮が教えてくれた「命の循環」
台湾の初夏、白河の蓮畑を歩くと、湿った風の中に土と花の香りが混ざります。
花が咲く一方で、すでに次の種が水中に沈んでいる。
その姿は、まるで人生の縮図のようです。
誰かが去っても、その人の思いはどこかに残り、また別の形で芽吹く――
台湾の蓮文化には、そんな“命の循環”の思想が息づいています。
いけばなで蓮を生けるとき、私は花を立てながら、その根を思います。
泥の中で命を支えている見えない部分。
私たちの人生もまた、目には見えない誰かの支えや愛情の上に咲いている。
そう思うと、花をいける行為が“祈り”へと変わります。
別れを「悲しみ」ではなく「感謝」に変えるいけばな
台湾の卒業式で、学生たちが涙を流しながらも笑顔で花を抱く姿を見たとき、私は「いけばなとは、この瞬間の心を形にすることだ」と思いました。
蓮を中心に据え、周りに空間を残すようにいける――
その余白が、別れの寂しさを優しく包み込みます。
日本では、花は「別れの象徴」とされることが多いですが、台湾では「希望のしるし」として贈られます。
同じ蓮でも、文化の違いによって意味が変わる。
しかし、どちらにも共通しているのは、「花が人を癒す」という真理です。
いけばなを通して感じるのは、
“悲しみは消すものではなく、形にして受け入れるもの” ということ。
花の中に自分の心を映すとき、痛みは静かに輪郭を失い、感謝へと変わっていきます。
それは、蓮が泥を抱きしめながら清らかに咲く姿と、どこか重なります。
台湾という土地が育てる「祈りのいけばな」
台湾で暮らすようになってから、私は「花をいける」という行為が日本で感じていたものよりも、もっと生活に近いものだと知りました。
市場の片隅にある花束、廟の供花、食卓に置かれた一輪の花。
それらすべてが、誰かの心を静かに支えています。
台湾の人々にとって、花は日常の中の “祈りの形” です。
それは宗教の枠を超えた、人としての自然な営み。
いけばなもまた、その祈りを可視化する芸術です。
花器に水を張り、蓮を立てるその瞬間、私たちは自分の心を“調える”という古くて新しい行為をしています。
一輪の花が導く、人生の静かな再生
卒業の季節に蓮をいけながら、私はいつも思います。
別れの涙は、悲しみではなく「愛の証」です。
誰かを想い、感謝できるからこそ涙は流れる。
そして、その涙のあとに咲くのが、蓮のような再生の花です。
人生の中で、何度も立ち止まり、迷い、手放し、また始める。
そのたびに、いけばなが私を支えてくれました。
花は言葉を持たないけれど、その沈黙の中にすべての答えがあります。
もしあなたが今、何かを手放そうとしているなら――
どうか一輪の蓮をいけてみてください。
水を張った花器に花を立てるだけで、心の奥に小さな光が灯るはずです。
その光こそ、次の自分を導く「再生の種」。
いけばなは、人生の終わりを飾るためのものではなく、“今を生きるための呼吸” です。
そして蓮は、その呼吸の中で静かに私たちを見守ってくれる花なのです。
おわりに
蓮をいけるとき、私は毎回同じ祈りを捧げます。
「どうか、この花が誰かの心に静けさをもたらしますように。」
花は語らず、ただそこに在る。
しかし、その “在る” ということが、どれほど大きな力を持っているか。
台湾という島の風と光、そして人々のやさしさに包まれながら、いけばなは今日も静かに命を語っています。
蓮の花のように、どんな泥の中でも凛として咲けるように。
いけばなは、私たち一人ひとりの“生き方”をそっと照らし続けています。